ども。
先日、こんな事がありました。
ジムでいつものメニューをこなし、例の如くサウナでこってり絞ってから水風呂に浸かろうと、普段ならきちんと掛け水もしてから入るのですが、その日はたまたま気温も高く、直ぐにでも頭から浸かりたくて、そのままザッバッ~~ン!と入ってしまいました。そしたら、突然知らないおっさんに「兄さん、頼みがある。これからはサウナから出たらまず体を一度流してから入ってくれないか?」と言われました。
そう、僕は“叱られた”のです。
歳を重ねるごとに“叱られる”事がだいぶ少なくなってきました。確かにこの歳になるとそういった社会の常識やマナーは自己責任に繋がり始め、だんだん何も言われなくなってきます。なんだかとても新鮮で僕は素直に「ごめんなさい」と謝りました。その叱ってくれた知らないおっさんの勇気と心持ちに言われた身とはいえ感動を覚えたのです。そして、ふと考えました。
“叱る人”と“叱られる人”、“叱る”と“怒る”の違いは何なのだろうと・・・。
昔はよく、見ず知らずのおっさんや叔母さんが子供達に注意を促したり、気安く喋りかけてきたものでした。確かにその頃はちょっと煙たい感じもあったのですが、別にそれは日常の普通の事であって子供達は話半分で聞きながらも大人の目を気にしながら遊んで大きくなっていきました。最近は、そういったお節介叔母さんやおっさんもめっきり減った気がします。
逆にこの頃は、他者に対して無関心な人が増えたように思います。壁一枚隔てた隣人の顔や名前を知らなかったり、ヘタに若者を注意してかえって危ない目に遭わされたり・・・個性を尊重するという大儀をいい事にちょっと利己的な人が増えてきた気がします。なんだか嘆かわしい風潮です。
よく、愛の反対は「無関心」と言います。まだ“憎しみ”を抱いている方がその存在を認めている分だけマシなのだそうです。人は共同体の中でしか生きられないのですから、存在自体を否定した方が辛いものです。だから、ムシが一番良くないですよね~。
“叱られた”時、僕は気恥ずかしさと共になんだか嬉しくもありました。そして、それはおっさんの“叱り方”にもあったのでしょう。「兄さん、頼みがある」なんて相手の器量に訴えかける物言いだと聞かない訳にはいきません(男としてもね)つまり、この時点でこのおっさんの勝ちだった訳です。僕は見事にやられてしまいました。
そして、思ったのです。“叱り方”にもテクニックがあるのだと。もしかしたら、受け手側の許容力よりもこれは大切な事なのかもしれません。ただ、一方的に頭ごなしに怒鳴り散らしても、それは自分の感情を相手にぶつけているだけでとても建設的だとは言えません。前向きな解決策は生まれ難いです。だから、“叱る”と“怒る”では違うのだと改めて感じました。
因みに、広辞苑で“怒る”を調べると「いかる、腹を立てる」とあります。内向の爆発です。反対に“叱る”を調べると「とがめ戒める」とあります。つまり、
「怒られた~」と
「叱られた~」では
ニュアンスはだいぶ違うのです。
うむ、いつだって堂々と意見のできるダンディな大人でいたいなと思いました。
その点、内のファンは“家族想い”な人ばかりで良いですよね~。
結局、最後は身内びいきで終わる僕でした・・・。
クロ(HOME MADE 家族)
追伸:
今日のテーマに合いそうな一冊。

大石静の“日本のイキ”
スルッと読めますよ。
