書く。こっちのブログのほうがすきかもしれへん。
男の子の靴はだいたいの人が26から28ぐらいまでやと思う
女の子の靴はだいたい22から24ぐらいまでやと思う
…ということは…
24.5から25.5の靴は中性ということになるのか。
今日、セールで24.5と25の靴があまっていた。履いてみた。はいらない。その時、そう思ったの。
今日は7月30日。もうすぐ7月も終わり。
今日の絵はマネの絵です。マネは以前、この日記に出した「草上の食卓」の画家です。印象派の歴史をつくった、すなわち、近代絵画の始まりを感じさせる絵を描いた画家です。
この作品はオルセー美術館にある「黒い帽子のベルト・モリゾ」という作品です。ベルト・モリゾは女流画家だった人です。
以前、日本でオルセー美術館展があった際に展示されていました。
ポスターの表紙とかにもなってたと思います。
印象派の画家たちが、それまでに使われていた「黒」や「白」を使わなくなったのに対し、マネはこの2つの色を使い続けました。印象派の画家たちは、「影=黒」といったようなそれまでの絵画の公式をくつがえし、それまでの公式にとらわれないさまざまな色を展開していきました。
しかし、マネは黒や白といった色をよく用いて絵を描いています。
その黒の高貴さなどが美術評論家から高い評価を受けています。
まー何も知らない僕がみると、この女の人がきれいということしか言えません。笑
夏休みになって、マネとロートレックの本を読み終え、今はセザンヌの本を読んでいます。
印象派祭り。
終われば、ルーベンスなどのバロック美術の本を読んでみよう。
絵の構図とかの勉強にもなっておもろい。絵の見方が変わっておもしろかったりする。
今日は8月1日。今日はセザンヌの絵です。なんでこの絵かというとあんま理由はないです。ただなんか第一印象がよかった。
セザンヌは後期印象派の画家です。マネが近代絵画の出発点。マネは前の日記にちょくちょく取り上げた画家です。それまでの神話や歴史画の世界をぶち壊した画家です。その後、ピサロ、ルノワール、モネ、ドガなどが印象派として権威を獲得し、印象派こそ近代絵画の始まりとして位置づけられました。
しかし、セザンヌだけはあまり理解されず、経済的な面でかなり困っていたようです。
理解されなかったのは、理由があります。
マネがその時代の保守的な批評家や大衆に理解されませんでした。それはマネが一歩先をいっていたから。
セザンヌも同様です。一歩先、すなわち、現代絵画に足を踏み入れていたのです。
セザンヌ自身は、自分の天才を気づいていましたが。
この絵はなんかええ。後ろの色とピエロ??の赤の衣装がかなりいい。微妙なオレンジもええ。右足がこちら側に向いてるけど、身体は違う方向向いてる。顔も道化っぽくていい。
セザンヌの絵は不思議。やっぱ先をいっていたんやろなーって思う。
それは理解されへんわ。
やっぱ天才は時代が追いついてこないんでしょうね。追いついてこないから天才となりうるわけやけど。
ちなみに天才ピカソは印象派に多大な影響を受けていたみたいです。
今日は8月8日。映画を好きな映画をとりあげます。シャイニング。
この映画の監督はスタンリーキューブリックという人です。とてもいろいろな作品を手がけていてとてもおもしろい映画が多いです。個人的に好きなのがこのシャイニングなので取り上げました。
この映画の何がおもしろいかというと約3時間の映画時間を感じさせないからかな。3時間みれるってことは相当ええのかなーって個人的に思います。
主人公のジャックニコルソンの演技がすごい。ほんま狂気。恐い。
だんだん頭が狂っていく小説家の役やねんけど、これが恐い。
この映画をみて一つ思ったことがある。建物とそこに住む人との関係性である。
建物が雰囲気が暗いとそこに住む人も暗くなるし、逆もまたありうると思う。映像などで、建物が映し出されたときに暗いイメージの建物であればそこに住んでいる人が暗いというようなステレオタイプがはたらく。
エドガー・アラン・ポーの小説の「アッシャー家の崩壊」もアッシャー家の屋敷の陰気さがとても詳しく書かれている。
そういった建物と人間の関係がこのシャイニングという映画でもあるような気がする。
孤立した山に一つの家族が一緒に暮らす。それもバカでかいホテルで。
そのホテルは冬になると大雪のため客がこないため、管理人を募集し、そこに住んでもらうという契約をする。
そのホテルの人のいない静けさと陰気さ。誰かがいるというような恐怖。
「人はいなくなることで存在する」
そう思わざるをえないような映画。
8月9日も映画を取り上げます。フェデリコ・フェリーニの「サテリコン」という作品です。この映画は前からみてみたかって、タワレコでみかけて1000円だったのでとうとう購入ました。
古代ローマのキリスト教以前が舞台の作品です。そこでは、人間が腐敗し、酒池肉林の世界に浸る。そんな世界をフェリーニ独自の映像技術でみせる作品です。
この映画のよいところはその映像の見せ方。豪華な衣装が際立つような光と闇の明暗のコントラスト。今にもルネサンス時代のイタリア絵画の一場面ではないかと思わせるようなすばらしいコントラストがあり、感心せざるえません。
俳優の演技も人間の欲望をうまく表現していて、こんな映画を撮れる映画監督はそういないと思えます。
帝国はヨーロッパ、アフリカ、アジアの一部まで拡大し、栄光をきわめるローマ。しかし、その栄光の陰では、人間の欲望をむき出しにした世界があり、人間の理性がはたらくなるような世界がある。
古代ギリシア世界では、芸術は徳の最高まで達した。
しかし、ローマ時代になり、芸術の美や徳は黄金という世俗的なものにより駆逐され、かえりみられなくなった。
このようなキリスト教以前のローマ世界をみていると、現代に対しても同じようなことがいえるような気がする。
みなが上をみつめ、欲望を丸出しにして人間性を無視して欲望のおもむくままにしていてはローマと何も変わらない。
世俗的なお金や名誉の世界では、人間は腐敗するだけである。
美とはかけ離れたその腐敗を逆説的に美という形で提示した、イタリア人フェリーニはやはり芸術家というのが適当であるような気がする。
そんなフェリーニ芸術がこめられている作品が、「サテリコン」である。
毎日更新中。8月10日はフランドルの画家ルーベンスの作品。
タイトルは「東王三博士の礼拝」です。
左側にいる女性がマリア。そのマリアが手を差し出して王に台の上でみせているのがキリスト。
キリストからはなたれる光と暗闇とのコントラストが際立つ作品です。
ルーベンスは画家であると同時に外交官でもありました。
とても画家として特殊な経歴の持ち主です。
そのため、各国の王室に肖像画を描くという理由で王室の内部に侵入でき、外交官として交渉にたずさわるということが可能であったわけです。
フランドルといってもルーベンスが生まれた時期のフランドル地方ネーデルラントはスペインの支配下にありました。そのため、スペイン王室のイサベラ王妃の命令で外交官として働くということがあったようです。
この絵画は、スペインと各国の和平交渉の場でスペイン王室にかざられていたものです。
キリストをしたう東方の三博士のように各国、キリストのもと争いをやめようではないかという愚意をこめてこの絵が和平交渉の場の絵として選ばれたということです。
このような時代は、画家が自由に描くというよりも、画家は貴族や王により認められ王や貴族の自画像を多く描いたりしています。
宗教画でも、その中に王や貴族の分身を描くことで、キリストへの信仰をあらわしたりしているようです。
重農主義者のティドロはこのルーベンスの絵画を批判し、そのような神話や宗教の世界に自画像を描くことについて批判していたような記憶があります。宗教は宗教であるというような感じで。違うかったらごめんなさい。
こうみると近代と画家のあり方がかなり違います。
何回も言うけど、このような宗教や神話の絵画の世界をぶち壊したのが、印象派なのです。
クールベは宗教画などについてこう言っています。
「私は神を描かない。なぜか…みたことがないからだ」
8月11日。晴れ。今日の絵画もルーベンス。
自画像といってもいいような作品です。
ルーベンスとイサベラが描かれています。
イサベラはルーベンスの最初の妻です。
この絵画では、ルーベンスは貴族のいでたちをしており、かなり貴族らしく描かれています。イサベラとほぼ同格に扱われています。
このようにルーベンスは実際とはかなり違ったような形で自画像を描いています。
それはルーベンスがこうありたいと思った自信の姿であると言われています。
この絵画のルーベンスは堂々としたいでたちで自信に溢れているような思います。
昨日のルーベンスの絵画でも右端の馬上のおっさんはルーベンスです。
カトリック的な絵画上に自身の姿を描くことで、カトリックに対する信仰の強さをあらわしたのでしょう。
また、この宗教画では、ルーベンスは首のあたりに金の首飾りのようなものをつけています。この時代、金の首飾りは貴族などの証であり、高い身分を象徴するものでした。ルーベンスは自身にそれを身に着けることで、自分の理想の姿を描いたのでしょう。
実際、ルーベンスは金の首飾りを頂き、貴族として認めてもらうわけですが。
自画像は自己満であるという強い思いこみが自分の中ではありました。
でも、ルーベンスに限らずこうあってほしいというような願望を描いたり、政治のために王室の自画像を描いたり。
ルーベンスのさまざまな人物の自画像はそのような政治的な背景、画家の願望などが垣間見れてとてもおもしろい。
ルーベンスは自画像に対する見方を変化させてくれた。
そう思います。
8月13日。もちろんルーベンス。タイトルは「戦争の惨禍」です。
祖国フランドルの平和を願っていたルーベンスの気持ちがよくあらわれた作品です。
中央の女性はヴィーナス。愛の神です。
その神が行く手を止めようとしている男がマルス。軍神です。
ヴィーナスの夫はウルカヌスであるため、この二人は不倫関係にあります。
ウルカヌスの目を盗んで会っていた二人。しかし、アポロの密告により、ウルカヌスの罠にかかりとらわれてしまい、神々に笑われるというのが神話のストーリです。
古代ローマの詩人、ルクレティウスはこの神話のヴィーナスを愛、すなわち、平和の象徴。マルスを戦争の象徴として考えており、そのような考え方が、ルーベンスの時代のフランドルにも強く浸透していたようです。
この絵画のヴィーナスは平和。そして、マルスは戦争をあらわしています。
マルスの足元では、書物が踏みつけられ、人間たちが倒れています。
リュートを持った女。子供をかかえる女。そして、建築士。
建築士は都市をあらわしています。
戦争のもとでは、このようにさまざまなものが犠牲になり、戦争の前では無力であるという考えをルーベンスはあらわしています。
ヴィーナスが止めようとしてもマルスは止めることをしません。
戦争の悲惨さ。祖国フランドルの平和。
それをあらわした作品として、この作品は、晩年のルーベンスの傑作として位置づけられています。
ヴィーナスが愛の神。そして平和の象徴。
パンクの女王パティ・スミスは反戦主義者。
なんかパティのそのような姿勢が頭の中によぎる。
その場合、マルスはブッシュということになるのかな。
今日は8月18日。上の絵画はティツィアーノの「ウルビノ?のヴィーナス」。下はマネの「オランピア」。この2つの作品には200年以上の間があります。ティツィアーノはスペインの宮廷画家でスペイン絶対王政のカルロス一世の時代の画家で、この王の肖像などを残しており、前の絵画でとりあげたルーベンスにも多大な影響を与えた画家です。
ルーベンスはこの画家の模写を多く試みています。その模写が模写を超えたところにあるというところにルーベンスのすごさもあります。
ルーベンスはティツィアーノの解釈とは違った方向へ絵画を描くといったこともしています。
例としては、「アダムとイヴ」。。あとは、作品みたらわかるんやけど、タイトル忘れた。笑
まー、話がルーベンスに行きかけたところでマネに行きます。笑
マネはこの日記で何回も登場してる画家です。印象派の画家です。
この「オランピア」という作品も物議をかもしだしました。
ティツィアーノのヴィーナスと違い、ふつうの女性であったからです。
しかし、ヴィーナスは描いていなくても、ヴィーナスの描き方には影響を受けています。この二つの絵を見比べたとき類似に気づかない人なんていません。
マネ自身もティツィアーノのこの絵画の模写をしています。
印象派は新しい絵画のスタイルを確立したけど、まったく昔の名作のスタイルを無視したというわけではありません。19世紀、画家は美術館に通い模写をおこなうことも大切なことであるとされていました。マネもその一人でありました。
ティツィアーノのヴィーナスはとても官能的で、体の曲線がとてもきれいです。さらに従順を示す犬が描かれています。
しかし、マネのオランピアは足が短く、官能さではティツィアーノのほうがあるような気がします。また犬ではなく猫が新たに描かれており、性欲は象徴しています。また黒人女性の黒と白のコントラストや、黒人女性の目から斜めにいき女性に目がいき、みる人は女性の視線とぶつかります。
この二つの絵画のように、影響を与え与えられる側。
ただ模写をし、考えを踏襲するのではなく、自分流に解釈し、歴史を重んじながらパロディといった感じで自分の解釈を加え、新たな作品として提示すること。このような作品には強く惹かれるし、画家の天才を感じます。
既存の体系を重んじながら壊すこと。
これこそ僕が目指すことであり、それがなければやる意味なんてない。
過去のさまざまな天才や学者たちが一生をかけて発見した真理や考え。
現在というときを生きている僕らはそれらに耳を傾けなければならない。
なぜならそれを読んだり、聞いたり、見たりするだけで、その天才たちの一生の時間が僕らにプラスされるのだから。
パロディとかみるとそういう精神が入ってるようでとても興味が湧く。
まず真似事。そこからだ。
今日は9月4日。ひさしぶりですプレイログ。今日の絵画はホルバインの「大使たち」という作品です。ホルバインはルネサンス期のドイツの画家で、デューラーと同時代の画家だったと思います。この絵は、さまざまなその時代の書物や知的なものが二人の間に描かれています。まーそんなことはどーでもいいです。笑
二人の間にの下にある白いかたまり。さてこれはなんでしょう?
これは正面からみても意味はありません。なにもあらわしはしません。
右からみるとなんと骸骨になってるようです。
さー意味の解釈が変わってきます。最初は書物なのが描かれている平和的なものであると解釈していたのに、白いかたまりが何であるか知ってしまったため、書物などが意味するものが変わってきます。意味の解釈のやりなおしです。
これは人間の欲望の視線のことをあらわしています。
最初、僕はこの絵画をみて何も感じませんでした。せいぜいきれいとか書物があって知的なイメージとか思ったぐらいでしょう。
しかし、もう違います。白いかたまりのことを知ってしまっています。そのため、純粋にこの絵を客観的にみることができないでいるのです。知りすぎてしまっているため、純粋な主観性が抑圧されてしまっているのです。
すなわち、絵画の側につるされてしまっているわけです。むこうからみられるといった感じでしょうか。
ロラン・バルトがある写真をみたときに、あることを発見してしまったため、その写真をみるたびにそこが自分の心につきささる印象を受けると書いてあったことを思い出します。
知りすぎてしまったことにより対象側に主体性をもたれてしまい支配されてしまうのです。
アパートがある。そこに脚を骨折し動けない男が住んでいる。その窓からさまざまな人の生活がみれる。ダンサー、作曲家、孤独な女性、セールスマン。男は動けないためそこからの映像しかみることができない。
ある日、セールスマンの不振な行動。いなくなったセールスマンの妻。
あそこで何があったのか。殺人では。男は知ろうと欲望しすべてを見ようとする。
セールスマンの不振な行動などを知ってしまったため、それまでの日常的な窓からみる景色が様相を変えてくる。
すべてをみようとすることにより、つるされる。もう主体性なんてない。客観的にみる自分なんていない。刑事がそんなことはありえないと言っても一向に反対をおしきる。実際に殺人はあったのか。
これはヒッチコックの「裏窓」のあらすじです。
つるされるとは英語でサスペンド。サスペンスの形容詞形です。
サスペンスに重要なのは、この何があったのか知ろうとする人間の欲望です。これがなければサスペンスの物語などはできません。
いかにほかの事物に支配されていることか。
こうやって自分がいろいろ書いていますが、それも結局は人の思考の模倣であったり改良でしかありません。いかに他者に自分が支配されているか。
かといって何も学ばない純粋な思考など存在するのか。
人は生まれながらに環境にさらされています。地上に生まれることにより、社会にさらされます。ということはそこに存在する限り純粋な自己の思考とは存在しません。
百歩ゆずって仮に純粋な思考が存在したとしましょう。
しかし、それは他者を意識することにより出てきたものです。他者の思考がないと、それと対立する純粋思考などないわけですから。
すなわち、どちらにしろ他者に支配されているのです。
他者は自分の鏡なのです。ラカンも、自己は鏡にうつる他者を通して確立すると言っています。鏡にうつる誰かわからないもの。それが自分であると知るとき自己が誕生するのです。
ぼくらは他者に支配されてる…。
10000字いったから次の日記。六甲山にでも書きます。








itoshiです☆




















コメント (18) コメントする