暗闇にうかぶパンティー。
六甲山に行ってきた。
台風は接近中。
そのため今日のバーベキューは中止になった。
ボウリングした。
ねこちゃんがスコア242を出した。
焼肉食べ放題でアイス食べまくった。
そのあとドライブして意味もなく六甲山へ。
霧はあまりなく少しは夜景をみれた。
今日は9月6日。台風が関東地方で猛威をふるっている。
ビデオ合衆国では以外な映画があったりする。この辺ではどこにもなかったヒッチコックの「舞台恐怖症」という映画があった。ヒッチコックのコーナーではなくサスペンスのコーナーにあった。なぜヒッチコックのとこにおかないの?素朴な疑問や。たぶん、店員もわかってないんやろうと考えております。
突然本題。これが書きたかったから今日のブログを書いたのです。
シャーロックホームズの会話で下のようなものがあります。
「そのほか何か、私の注意することは?」
「あの晩の、犬の不思議な行動に注意するべきでしょう」
「えっ?ホームズさん、あの晩に犬は全然何もしなかったはずですよ」
「そこが不思議な行動だと申すのです」
ホームズは何のことを言っているのでしょう。
それは誤った錯覚の解決が真実にとって必須であるということです。
誤った錯覚は、真実へと至る障害としてだけでなく前提条件ともなるということです。
ABC殺人事件というものがあります。アルファベット順で殺人を犯していくという残虐な犯人像が浮かびます。少なくてもみなそう思うでしょう。
しかし、真実はその錯覚にあるのです。
アルファベット順という動機は、犯人の真実の動機を探偵たちに錯覚させ、ミスリードするためにあるのです。
すなわち、このアルファベット順という動機は、真実を隠蔽するために存在しているのです。
このアルファベット順には意味があると思わせるのです。
ホームズの会話にも同じことが言えます。自然にみえる行動によって隠蔽しているものはないかという疑問です。
ホームズは細部をみろと助手のワトソンに忠告します。
その細部こそが重要であると。
まず事件とは空白です。なにもわからない。何が隠蔽されているのかもわからない。どうして犯罪がおこなわれたか、欠如している空白の物語とはどのようなものかを探偵は探し出します。最終的に物語の最後になってやっと最初の物語、すなわち、いかにして犯罪がおこなわれたかのところにいきつきます。
意味のかけたかけら。原因と結果の正常なつながりは失われ、あらゆる瞬間にすべてが生起する。法の欠けた断片を法のある断片に変形する。
精神分析のトラウマと同じです。空白の言語化できないものがトラウマです。その空白が何であるかをあきらかにするため分析家は、さまざまな断片のかけらを集めようとします。それが何を隠しているのかをあきらかにしようとします。何を隠そうとしているのか。何が私を錯覚させるのか。
錯覚がなければ真実がないのです。
ある商人の召使がバグダッドの市場で死神に出くわす。
死神は召使を見つめる。肝を冷やした召使は主人の家に逃げていく。
主人にむかってこう言う。
「死神に追われています。馬を貸していただけませんか」
主人は馬を貸す。召使は馬に乗り、昼も夜も馬に乗り続けサマワへ。
主人は市場で死神を探し出しこう言う。
「おまえが召使を見るから召使が逃げてしまった。お願いだから召使をみないでくれ」
すると、死神はこう言った。
「見つめたんじゃない。あいつはこんなとこで何をやってるのかと思っただけさ。だって、あいつとは、明日サマワで会うことになっているんだから」
この物語も錯覚する召使が真実へとむかう姿が描かれています。錯覚のなかに真実があるのです。決して、真実と錯覚は別物でないのです。
カプランとはなにか。ある表象があたえられます。それは錯覚です。
真実はそう錯覚させることで機能するもう一人のスパイであった。
これは、あるヒッチコック映画のエピソードです。僕が、ヒッチコック映画30本近くみたなかでの最高傑作と位置づける作品です。
行動する主体が、ある対象Xが何であるかをあきらかにするために奮闘する。しかし、その対象Xは自分がそう錯覚することによることでしか浮かび上がらないものであり、そう錯覚しなければ真実がわからない。
うーん。難しいもんや。
今日は10月7日。ずっと書いてなかったのでひさしぶりに書いてみます。
最近、みた映画でおもしろかったものをあげてみたいと思います。
思います。思います。
まーこの程度のレビューに「シン」を使うまでもない…
わかる人はわかる。
未来のなかいけんたならわかる。
まず一つ目は、フランソワ・トリュフォー監督の「恋のエチュード」。
恋愛の三角関係のお話です。
主人公を演じるジャン・ピエール・レオーは僕の好きな俳優の一人です。
なんといってもかっこいいねん。
小学校くらいに同監督の「大人は判ってくれない」の主演オーディションに合格し、それ以来、トリュフォーの映画に出まくっています。
この俳優はトリュフォー監督の分身であり、監督はこの俳優に対し、強い思いいれがあるみたいです。
ミュリエンヌ(名前あんまおぼえとらん)とアンヌという二人の女性がいるのですが、最初、レオーは、ミュリエンヌに恋をします。
結婚を誓うのですが、一年間の疎遠のあと、レオーはミュリエンヌを愛さなくなります。そして、自身の仕事に奮闘します。適当に女と遊んだりもします。
しかし、ミュリエンヌのことが気になるようになります。
アンヌがレオーの元をたずねてきます。レオーはアンヌを愛するようになります。アンヌもレオーを愛します。アンヌはミュリエンヌにそのことを黙っておくのがたえられなくなっていき苦しみます。
そして、ミュリエンヌに打ち明けたあと肺の病気で息をひきとります。
レオーはその後一人静かにすごし、ミュリエンヌは学校の教師と結婚します。
…かなりストーリーを省略しました。笑
この映画をみて思ったことは、恋をするなんて理由がないということです。
恋というものがあり、それは人から人へと移り変わっていく。
人が人を愛するのになんて理由はないと思います。
レオーがミュリエンヌを愛そうがアンヌを愛そうが他の誰を愛そうがそれに理由なんてないんだろうと思った。
恋愛なんてそんなもんなんでしょう。
突然、愛する人が嫌になることもあるんだなと…。
「なんで嫌いになったん?」
「なんとなくや」
今まではそんなこともあるんやと思えます。
これと同じ理由で、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「情事」も素敵な映画であると思います。
男と女は難しいです…
二つ目の作品は、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」です。
この映画は最近みたわけではないのですが、結構気に入ってる作品です。
何回もみている作品です。
ストーリーは、主人公のプロの写真家が、ある昼下がりに公園で撮影した写真を現像してみるとそこにかすかに死体がみえるというお話です。
ある一つのことがあきらかになることで、一つの映像の解釈がここまで変わるとは…
えらいもんです。
どえらいもんです。笑
死体がその場所にあるということでその写真や撮影時の状況などもすべて変わります。
観客はそれをさけれません。観客は考えてしまいます。
…あの男と女は不倫してたんちゃうや。あれは殺人事件の現場やったんや…。
そう観客は考えてしまうのを避けれません。こんな風に映像は前後状況や環境により解釈が変わってしまいます。
ジャン・リュック・ゴダール監督はあるインタビューでこんな発言をしていました。
「ある男がいる。その男が女をみている。次の男の顔をみるとその男が女に興味を持っていると観客は感じるんだ」
そんなことを言っていたような気がします。ヒッチコック監督も同じようなことを言っていました。観客は映像を解釈しています。
何も語らなくても観客は解釈し、映像を理解しようとします。
映像とはそういうものなのでしょう。
監督はただ映像を撮影するだけです。監督と映像の関係と観客と映像の関係は異なるのでしょう。
この映画も一枚の写真の持つ映像の力について考えてしまいます。
一つのことを知ってしまうと映像や状況は変わってしまうということについて考える映画です。
現実世界でも似たようなことがあります。前に書いてたらごめんなさい。普段、昼間とおりすぎる場所を夜通るとあらたな発見をすることもあります。
今日、僕は帰り道にいつもある道路のポールがいつになってもないからとても不安に感じました。不安というか恐怖になりブレーキをしてチャリをとめました。笑
前に日記でも書きましたが、普段を知っているがゆえに恐怖してしまったのです。
映画から遠ざかってしまった。
まーまとめるといい映画です。笑
てか、すべてこの一言で片付けれます。
長いこと書くのは自分が何考えてるのか知りたいためです。笑
三つ目は、「Back To The Future」。
名作中の名作。毎日あのテーマソングを聴いています。
プレイリストをみれば一目瞭然。笑
これをみて思ったことは、たしかmixiの日記に書いたと思われます。
この映画ほんまええね。
マイケル・J・フォックスがええね。
今日はこの辺で。次はひさしぶりに絵画いってみよかな。
レンブラント「夜警」
ドラクロア「十字軍のコンスタンティノープル入場」
今日は10月23日。現在深夜です。2時半です。あほはまだおきています。明日は夕方から授業です。
この二つの絵画を取り上げた理由は、この絵画の場面を再現しようとする映画監督とそこで働く労働者の話を扱った映画を今日見直したからです。
その作品の監督は、ジャン・リュック・ゴダール。
作品のタイトルは「passion」。
以前に一回みたけど、眠たくてすぐにギブ。
どんな内容やったかはほとんど覚えていませんでした。
もう一度一年ぶりぐらいにトライ。
僕の中でゴダールの映画がみたくなるときの気分というのは、なんか考えたいとか思ったらゴダールの映画をみる。
この奇人の映画をみるとぽけーっとする時間が幸福だと感じる。
レンブラントはオランダの画家で、17世紀オランダが世界の海を支配した時期の画家だったはず。笑
この「夜警」は彼の代表作。光と闇のコントラストが絶賛されている作品である。
ドラクロアはフランスの画家で、19世紀の七月革命や二月革命の波動の時代を生きた画家です。
静止した自然をとらえ、現実をそのまま写実するのではなく、動きのある絵画にするため自分の想像力と現実の間というところの世界観を目指したため、自分にしかできない人間の動きや、色彩の加減をつきつめていった画家でもあります。
彼は色彩の研究もおこない、彼により科学的な色彩の研究が進んだといわれ彼なくしてこれ以後登場する印象派はなかったといわれています。
生涯に9000点以上の絵を描き続けとても勤勉な人でもあったようです。
絵は火などにより燃えてしまいます。もちろん作品が少なければ少ないほど燃えてしまえばその画家の痕跡もなくなってしまいます。
そのため、できるだけたくさんの作品を描き、自分の生きた痕跡を残した画家でもあります。
僕自身、高校時代にドラクロアを知ったんですが、最初みたときから好きだった画家が彼です。彼の絵はばかの僕でもすごいと思う。迫力が半端やありません。彼の絵が美術館なのであるととてもテンションが上がります。
話が絵画に移ってしまいました。
話を映画に戻します。
この二つの絵のほかにゴヤやワトーやアングルの絵画を再現しようとし、光がダメだという監督の意向により、撮影は延び、赤字が重なっていくというのがおおまかなあらすじです。
しきりにプロデューサーが「物語はどんなものだ」といいます。
監督は答えません。
なぜなら物語がないからです。
僕らは映画をみるとき必ずストーリーがあると思い、それについて考えたり楽しんだりするために映画をみます。(だいたいの人はそうでしょう。僕もそうです。)
一つの映画には物語があり監督にはある一つのメッセージがあるのだ。
そんな馬鹿げた考えを抱かずに映画を見ることができる作家が僕には今のところ少なくとも二人います。
それがゴダールとミケランジェロ・アントニオーニです。
最近では小津安二郎もそうかな。
メッセージがあるもの。それは政治映画や。今勝手にそう思いました。笑
まっそれはいいとして。
ゴダールの「愛の世紀」という映画があるんですが、それを見終わったあとで、近くに座っていたおっちゃんたちが感想として「ぜんぜんわからんかった。勉強してきまーす。」と言っていた。
僕はこう思った…
わからなくていいんです!!!笑
ゴダールの映画をみてストーリーがあるなんて思ったらあかんと個人的に思う。
ゴダールの映画をみると印象的なセリフが頭の中に残る。その余韻がたまらなくよい。そのために映画をみるようなものだ。
「映画。それは解釈だ」~気狂いピエロ~
「労働から愛へ向かおう。」~passion~
「ある物事を考えているときは、別のある対象について考えている」~愛の世紀~
一つ目はよく僕が日記に書いてることです。笑
二つ目。これは今日僕がこの言葉を聞いて感じたことです。
哲学者ヘーゲルは現代の労働は他人に依存しているといいます。
このパン。このパンを食べるときすでにわたしは他人の労働に依存している。このパンを売るもの、作るもの、工場で働く労働者。
現代の労働は個人のためでなく、必然的に他人のための労働になるのです。
この「他人のための」という視点。労働という視点を通じてこそ他人のための愛に向かえるのではないか。
かなり勝手な解釈やけど。これを感じただけでもこの映画をみた価値はある。ゴダールの映画をみるときはこれこそが魅力や。
三つ目。この言葉はたしか哲学者ベルグソンの言葉やったと思う。
ベルグソンの考えで言えば、ある対象、たとえばパンを考えているとしよう。あるパンを考えているとき、そのパン以外のパン、すなわち、過去にその主体が出会い食してきたパンのことが必ず考えられているはずであるということです。
ある対象パンを考えているとき、別の対象パン、すなわち、主体により知覚されずにおり、その場所から超越した人間の過去の記憶により知覚されたことのあるパンを考えている。
そのパンがそのパンであるためには、そのパンじゃない別のものがない限りそのパンではありえない。パンという規定のうちに、そのパンではない別のものの規定が入りこんでいる。
ヘーゲルならこう言っただろう。
やから、ある対象について考えているとき別の対象を考えているというのは、ヘーゲル的な文脈でも読解はできる。
こういった印象的なセリフに出会うのが、幸福に感じるため僕はゴダールの映画をみる。
映画「passion」のボーナスとして、ゴダールがこの映画についてしゃべる映像があるんやけど、そこで興味深い話をゴダールがしていた。
映画は最初、物語はなかった。ある場所にいき撮影するだけであった(映画の初期のころは工場の出口から出てくる労働者を撮影するというだけのものでした。これが今みるとほんまおもろないねん。笑)。
出演する人をキャスティングし、撮影場所へ。今日いくらかかったか。俳優に何円。機材に何円。俳優に走らせて見よう。女優をおいかけさせてみよう。俳優が女優に恋をしたらどうなるか。
ストーリーの誕生だ。映画はみるものなのだ。
たしかにそうやと思った。ある断片があり、それをつなぎあわせることこそ人間にできることができコンピューターにできないこと。
ある人と話をしていてもいろいろ頭の中でいろいろな話の断片が錯綜している。いろいろな話が思いつく。この能力が人間にあるからこそ推理が可能なんやと思う。
いろいろな犯人が残した痕跡から、さまざまな状況のストーリーを考えることができる。
はじめ映画にはストーリーはなく、みるだけのものであった。
ストーリーが登場し、映画にストーリーはかかせないものとなった。
しかし、その初期の映画の在り方に時代を逆行させたのが、ゴダールであり、アントニオーニであり、ロッセリーニであるのだと思う。
ロッセリーニは”男と女と車”の断片で「イタリア旅行」。
ゴダールは”男と女と銃”の断片で「勝手にしやがれ」。
アントニオーニは”男と女と放浪”の断片で「さすらい」。
断片をつなぎあわせるだけで映画になる。
物語を物語る必要はない。
…
だらだらと長くなりました。笑
ひさしぶりやったし、長く書くのもありかと思いまして。
プレイログは僕なりの「労働から愛に向かおう」です。








itoshiです☆














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