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社長の履Rec書 (10)

通称 のり ・ のなか 

2008年6月末日で退職致しました。
下記の「元会長のロックンロール黄金時代」をご覧下さい。


<大人のための音楽サイトをご紹介>

こちらもぜひ、ご覧下さい&x-exclamation2;

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The Future Is Unwritten

感謝御礼

マウンテン(社長の履Rec書最終回)

ホワイトベリー

野中規雄の写真館(写真最終回)

野中規雄の写真館 20

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引っ越しのご案内

このブログは2007年に完結しました。
シリーズ2を経て今はシリーズ3として
2009年2月からこちらに引っ越しております。

タイトルは
「レッツゴー!洋楽研究会」です。
よろしければこちらもご愛顧のほどお願いします。

http://ameblo.jp/nihonyogaku

2009/02/12 21:06  全て表示   1   コメント 0
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The Future Is Unwritten

「会長のロックンロール黄金時代」

半年間の間に「社長の履Rec書」に登場した昔の仲間たちも
何十年かが経つとバラバラになったり音信普通になったり、
故人になった人もたくさんいます。

誰でも若かりし時代はピチピチと躍動しています。
今の自分は棚に上げて記憶の中の仲間たちは若いままです。
だからクラス会、OB会ではガッカリすることが多いのですね。
思い出は美しいと申します。

昔話は昔話として記録しておきさえすればいいものを
その「美しい思い出」を壊すように
この間から野中と友人たちの現在を書き始めました。
会長のロックンロール黄金時代
今では登場人物の容姿も行動もすっかり変化しております。
ある意味醜悪かもしれません。
でも事実は事実。

しかも年は取っても老人になるには早すぎるとばかり
チョイでも超でも何でもいいからおやじのままで遊び続けたい
ていうか、死ぬまで老人にならずに生きていたい。
迷惑な話ではありましょうが、そう決めちゃった連中です。

たとえみんなから露悪趣味と言われても
そんな2007年の野中規雄と仲間たち、
過去・現在・未来で言えば「現在」篇
それをしこしこと書いていきます。

***

クラッシュのジョー・ストラマーの自伝映画
「LONDON CALLING / ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー」
が、ジュリアン・テンプル監督で9月に公開されます。

この映画を見てショックを受け「醜い」自分でもいいから
このまま正直に曝していこうと思ったのがキッカケでした。
映画については別の機会に書くつもりですが
カリスマであったあのジョーですらこんな人間的な悩みや苦しみが、、
それなら一般人の私の迷い道クネクネ程度は当然だな
と安心した次第です。

映画の原題は「The Future Is Unwritten」
カッコ良すぎるタイトルですけど真実ですもんね。
過去は過去で終わらず、現在に続いているが
未来というものはまだどこにも書かれていない。

2007/08/13 15:28  全て表示   3   コメント 2
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感謝御礼

去年の11月14日から始めたこのブログもほぼ8ヶ月、
きのうで無事終了しました。

とても不思議なんですが、すっかり忘れ去っていた当時の記憶が、
書いているうちに次々と手繰り寄せられる感じで蘇ってきて
思いの他こんなにも長く続けることができました。
きのうまで全部で108本ですって!
偶然ですが、この年齢になっても未だに煩悩の多い私には
ちょうどいい区切りの数字かなと思われます。(笑)
例のTVドラマ「LOST」も108がキーワードだったし。

みなさんからメールやメッセージやコメントやハートマークを
たくさん頂いたのも、ここまで続いた大きな理由だと思います。
本当に有難うございます。

結構驚いたのは、業界の飲み会などで「見てるよ」と
声をかけてくれる人が本当にたくさんいたこと。
「メッセージくらいくれればいいのに」と思ったり
「ヤバイこと書けないから『裏履Rec書』でも始めようか」と思ったり。

そして何より、このブログがキッカケで何十年間も音信不通だった
人たちと連絡が取れたことが嬉しい波及効果でした。
全員の名前は書けませんが、あの人、この人・・・
さすがにネット時代だな、と。
LAやロンドンからコメントくれた人を初めとするみなさん、
このまま又去らないで下さいね。
野中もあと1年は会社にいますから。どこかで飲みましょうよ。
危なくてここに公開できなかったネタは、
その時お酒に酔ったフリでもしてお話しましょうか。

リタイアまであと1年なのだし、何らかの形で続けたら?
と言ってくれる仲間もいますので、
ひとまず「社長の履Rec書」としてはここまでにして、
又何らかの形で登場するつもりです。

ともあれ、長くつきあって頂いて有難うございました。
ゆうべ早速お疲れ会やったけどうちのスタッフも、有難う!
感謝です&x-yureruheart;&x-yureruheart;

野中規雄


(リタイアまで百マイル)

2007/07/10 15:42  全て表示   11   コメント 8
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マウンテン(社長の履Rec書最終回)

★マウンテン / 暗黒への挑戦(Live-The Road Goes Ever On)★

マウンテンとは、あのウッドストックにも出ていた、
ギター;レスリー・ウェストとベース;フェリックス・パッパラルディを
中心とするアメリカン・ハードロック・バンドです。
その1969年にレスリー・ウェストのソロ・プロジェクトでデビューし
すぐに正式なバンドとなって70年代初頭を走ります。
(元クリームのプロデューサーでもあった、バンドの音楽的支柱
パッパラルディは1983年奥さんに射殺されています)

私が大学3年生の時に「ミシシッピー・クイーン」がヒットしました。
でもブリティッシュ・ロック・フリークで、ツェッペリンこそが
ハード・ロックだと信じていた私にとっては、マウンテンは
「ま、普通のハード・ロック・バンド」の認識でした。

ところが入社して最初に出席した編成会議の席上で
「これはロックの革命的なバンドなんだ!!」とつばを飛ばす
長髪の赤ら顔アメリカインディアン風担当ディレクターがいて
そのディレクターの情熱と迫力あるプレゼンに圧倒されました。
それが我が師、『堤光生さん』との初めての出会いでした。

日本では堤さんが
●71年12月の「ナンタケット・スレイライド(マウンテン3)」
の発売をキッカケに怒涛の攻勢をかけていました。
●72年3月「悪の華(マウンテン4)」発売
(72年4月ここで私が入社します)
●72年5月「勝利への登擧(マウンテン2)」再発
●72年7月「暗黒への挑戦(マウンテン5)」発売
●72年10月「レスリーウェスト(マウンテン1)」再発
1年間に新旧譜合わせ実に5枚のアルバムを発売したわけです。




記憶では「暗黒への挑戦」リリースの時だったと思うのですが
宣伝の私が放送局まわりをして深夜に会社に戻ると
何か一心不乱にデスクで原稿を書いている堤さんがいました。

横目で見ながら「お先に失礼しまーす」と帰った翌朝10時半
「おはようございまーす」と出社すると
堤さんは前の晩と同じ格好、同じ姿勢で原稿を書いていました。

その日の夜も堤さんは原稿を書いていました。
そして実に2日間徹夜して書き上げたのが「ハーモニックス」という
レスリー独特の奏法についての今や伝説的な音楽解説原稿。
それに加えてマウンテンの宣伝計画と営業マニュアルでした。
入社していきなりディレクターの仕事というものを見せつけられ
自分もいつかあんなことをしてみたい、と憧れた瞬間でした。

***

それ以来私が洋楽を去るその時まで、堤さんは私にとっては、
人生で最大の尊敬できる恩師であり先輩であり、
いつか追いついて越えたい最大のライバルでありました。
何と12年間の長きにわたって、その堤さん直属で仕えました。
「仕える」という言葉が一番ふさわしかったでしょう。
堤さんはいわゆる天才でしたから、まさに畏怖すべき神であり
同時に恐ろしい悪魔のような人でした。
堤さんの予言はことごとく当たりました。
その後のコンピュータゲームの隆盛も、今で思えばi-podも、癒し系
音楽のブームも格闘技ブームも20年前に予言していました。
(唯一「バーチャル・アイドル」の出現はまだですかね?)

2人が「ディレクターと上司」という関係の時代、
チキンで慎重な私の尻をたたく乱暴な上司が堤さん。
ある意味ピッタリの相性であったはずです。
このブログで偉そうに自分の成功体験を書き散らしてきましたが
そのうちのいくつかは堤さんという上司がいなければ絶対にあり得ないものでした。
最初のモット・ザ・フープルからエアロ、ジャニス、チープトリック・・・
すべて堤さんのバックアップがあったからこそできた仕事でした。
(エアロスミスの発売の仕方なんて、マウンテンの物真似ですよね)

「営業なんか気にするな!スターディレクターは社長より偉いんだ」
「行け行け!構わずやれ!それより、もっとアイデアを飛ばせ」
「ケチケチしててヒットなんか出るか!金は有効につかうものだ」
「企画だ、企画、ディレクターはとにかく企画が命だ」

その強烈で強引なカリスマ的手法は先輩だろうが上司だろうが
一切構わず蹴散らして突き進むというものでしたから
合わない人たちも数多く、私はその場合は補佐官役をしました。
上役のフォローをするのは変ですけどね、あ、秘書官か。
後輩や部下たちにとっては通訳をやりました。
「あの人が言ってることはこういう意味だよ」と。巫女かい!

そんな、異なる者同士が組んだ無敵のタッグではあったものの
私が中堅ディレクターになり課長になり次長になって行く中、
徐々に私と堤さんの間には微妙な溝ができてきます。
クラッシュ以降私に芽生えた自立心みたいなものだったでしょうか、
「堤さんとは関係なく自分で仕切りたい」願望。

80年代終盤、終に別れが来た日、それは突然でした。
いわゆる「キレた」のが、何がキッカケだったのかわかりません。
積もり積もっていたものの堰が切れたのかもしれません。
それは私が入社以来続けていた「仕えること」「補佐官」「通訳」
を放棄した日であり、心が堤さんから離れた瞬間でした。
もう同じ道は歩かない、と。
1990年、同時に洋楽からそれぞれ違う世界に異動になって
その後ほとんど接触することもなくなり、時は過ぎ・・・
いつか10数年が経っていました。

***

先週久しぶりに本当に久しぶりに堤さんのご自宅に伺いました。
数年前に病気をされて今はそのリハビリ中とのことでしたが
不義理で不肖な弟子の私を快く迎えてくれました。
まず長年のご無沙汰をお詫びし、私もリタイア間近というお話をしてから、ちょうどこのブログの時代の思い出話に華を咲かせました。
「君はエアロスミスよりジャニス・イアンの時の方が光ってたよ」
「ディック・セントニクラウスなんて会話なしのままアイコンタクトで
大阪限定発売決めちゃいましたよね~」etc.

堤さんはベンチャーズの影響でギターを始めファンクラブをつくり
慶応の学生の時に加山雄三さんとランチャーズというバンドを結成し
そこのギタリストだった経歴の持ち主です。
とにかくギターを抱えどっぷり音楽に浸かっていた堤さんは
会社を退社されるとすぐに独自のギターアンプを作ってそれが
リー・リトナー他のギタリストたちに賞賛されるようになり
その技術を日本、イギリス、韓国、アメリカに特許出願しました。
私がお邪魔した時はアメリカの結果がまだ出ていませんでしたが
その他の国の特許は取れていました(すげぇ!)
日本の特許は今年の春に取れたばかりだそうです。
これからはそのアンプを作ることに力を注ぎたいんだよと、
いい笑顔で語ってくれました。

あっという間に時間が過ぎて最後に
「私から堤さんへの一番のお土産はこれかと持ってきました。
堤さんに教えてもらった仕事の結晶がこれだと思います。」と
ザ・クラッシュのアナログ・シングル・ボックスをお渡ししました。

「おーーーーーこれはいいや!最高だよ、野中さん。
イギリスのレーベルはこのグラデーションが利いていたんだ。
これだったらイギリス人も欲しがるね。
カッティングもやった?いいなあ、うらやましい。

じゃ、偶然だけど一つ言っておくよ、これからはアナログだ。
デジタルの次は絶対にアナログの時代が来るからね。」
手渡された堤さんの名刺にはこう書かれていました。
「Analog Sound Lab.」
それは堤さんの工房名であり、例の特許のアンプ名でもあります。

忘れやしませんよ、堤さん。堤さんの予言ですもん。
こっちは時期的な偶然ですが、今までアプルーブの取れなかった
マウンテンのカタログがやっと本国からOKが出たようで
今秋遂に紙ジャケで発売できると白木が言ってます。
出来上がったら真っ先にお送りしますね。
あの「ツイン・ピークス(異邦の薫り)」まで出ます。
西亀さん担当のライブ・イン・ジャパンでしたね。
私にとっては「チープ・トリックat武道館」の元ネタですよ。

そんなわけで「社長の履Rec書」最後の項の写真は堤さんと私。
野中がやつれてるなあ、ニューキッズやってる頃かあ。
「ニューキッズ神社」の前の年末か正月か
ナルホド・・・

2007/07/09 15:02  全て表示   5   コメント 4
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ホワイトベリー

★ホワイトベリー / 夏祭り★

夏になりましたからね。

72年に入社した私は洋楽に90年までいて
その後、国内制作の新人発掘部門を担当し、
国内レーベルを2つ巡ってから、
ソニー・ミュージックダイレクトに来る直前の数年間
マネージメントつまりプロダクションをやりました。

2000年設立、社員4人の小さな会社でした。
社名は「フィールド・オブ・ドリームス」
自分の一番好きな映画のオマージュで。

そこで最初に契約したアーティストが
この「ホワイトベリー」でした。
北海道北見市在住の女子中学生バンドに会うために
会社ができて最初に出張した先が北見です。
生まれて初めての北見は春だというのに雪が残ってて・・。
ソニーレコード代表だった目黒さんと一緒に
メンバーの親御さんたちに挨拶した後で
2人してバーをハシゴしながら語った時は不安ばかりいっぱい。
まさかすぐにあんな大ヒットが出るとは
想像もしていませんでした。

会社設立したその年の大ヒット曲が「夏祭り」でした。
その年と言うより、設立3ヶ月目に70万枚の
シングル・ヒットが出てしまったわけです。
出会い頭ってヤツですか。
或いはビギナーズ・ラック。

でも実は・・
私はあの曲に初めは反対してたんです。
あの頃「YUKI」がそこそこヒットしていた時期で
作曲はご存知ジュディマリの恩ちゃん。
新生事務所としてもレコード会社としても
解散していたジュディマリの後を狙うつもりでいました。
いやいや、あの頃は真剣に。
だからソニーレコードの担当プロデューサーの江川さんから
次回作がジッタリンジンのカバーの「夏祭り」だと聞いて
「オリジナル楽曲で行くべきだ」と猛烈に反対しました。

しかし、ドラマが始まり
例のミニの浴衣のクリップが評判になってきて
ジワジワと「ヒットの風」吹き始め、発売当日
みんなでシングル盤の初日バックオーダーを予想しました。
大体4000枚から5000枚。
それが1万枚を超えるオーダーがありました。
ごめんよ、江川さん。君が正しかったです!
今でもこの曲は当社の「着うたフル」では夏ともなると
トップ3に入ってくる、もうスタンダード・ナンバーです。

悩みも多くありました。
まず何よりバンドのメンバーが子どもだったこと。
そしてみんな女の子だったこと。
地方在住だったこと。それもかなり遠い。
微妙に学年が違うために高校進学ですら問題になる
それぞれの家庭の考え方の違い。
レコード会社しか体験したことのない私にとっては
何もかもが初めてのことだったし、しかも応用問題ばかりで。

中学~高校という時期の女の子ならではの問題は
娘のいない私はどう対応したらいいのか途方に暮れました。
自分はこの仕事に向かないダメ人間だと落ち込んだり。

そうそう、この年に紅白歌合戦にも出ちゃったんだ。
学童だからと、最初に歌ったらすぐに開放され、
ご飯食べてから宇田川町の交番近くのカラオケボックスで
新年を迎えました。
「社長からのお年玉だ」と1万円づつ配ったです。

先日、成人したキーボードの里美と食事した時、
「紅白歌合戦は全然緊張しなかったホワイトベリーも
札幌ドームのこけら落とし、巨人ーヤクルト戦の
国歌斉唱した時は足が震えた」と言っていました。
長嶋茂雄監督が大きくてオーラが凄かったと。

その後メンバーは将来の方向性の違いなどから解散しました。
しかし、初めてバンドリハーサルを見て愕然とした暗澹たる思いと、
その後のメンバーの努力の結果の素晴らしいライブの満足感は
決してこれからも忘れることはないでしょう。

野中規雄の音楽人生にとって重要な位置を占めているので
日本のバンドですがここに加えました。

***

ヒットが簡単に出てしまったことが
スタッフとバンドメンバーのその後の人生にとって
いい結果となるのかどうかはまだわかりません。
歴史と言うにはまだ記憶が新しすぎて
今日も何回もかけながらこれを書いていて、
思わずシンミリしてしまった私です。

でももう7年も昔のことなんですねー。
今はドラムの恵理加とギターの彩は結婚してママです!
ベースのゆかりは就活中の大学生。
キーボードの里美は何と当社の宣伝マンをしています。
(自力で難関を突破してきたんですよ)
一人、ヴォーカルのゆっきだけが音楽活動を続行中、
直近では7月6日RUIDO K4と、7月24日新宿RED CLOTHで
ライブがあるそうです。

みんなこれから先の人生の長い子たちばかりです。

写真は事務所でくつろぐ当時のメンバー
左からゆっき、里美、恵理加、彩・・
ゆかりがいないぞ。

2007/07/05 06:54  全て表示   5   コメント 5
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野中規雄の写真館(写真最終回)

★湯川氏宅★

どこまで行ってもキリがないのでこれで写真館は最後にします。

1977年春。
四ツ谷の若葉町にあった湯川れい子先生宅でのショットです。
プライベートの極地、家族の写真まで出しちゃうのかい!
と言われそうですが、もう最後だしお許し下さいませ。
先生ももしご覧でしたら写真無断使用のことごめんなさい。

この赤ん坊2人、
同じ年の同じ日に生まれて、同じ名前をつけられた2人です。
「ゆうき」と言います。

その偶然の一致を湯川先生とお話していて
「2人を会わせましょうよ」ということになりました。
それがこの写真です。
活発で力強いあちらの「ゆうきちゃん」に対して
ポワーンとして弱々しいうちの「ゆうき」は
オモチャの取り合いでも負けてました。

この日からあっという間に30年経過しました。
あちらの「ゆうきちゃん」は今は舞台プロデューサーとして
お母さんとも対等に仕事をしているようで相変わらず逞しい。
うちの「ゆうき」もこの5月に結婚して家庭を持ちました。
おめでとう、やっと独立してくれて父さんは嬉しいよ。

最終写真館は、社長じゃなくて「家庭人の野中」の顔にしてみました。
&x-smile;

2007/07/04 11:29  全て表示   4   コメント 0
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野中規雄の写真館 20

★ジャニス・イアン★

この何の変哲もない記念写真。
1976年ですかね?来日公演の時。
フォトbyピーター・カニンガムです。
ジャニスのジャケットとか撮ってたカメラマンですね。

しかし、凄い顔ぶれですねーー。CBSソニー洋楽販促課。
左から金弘さん、城野さん、秦さん、ジャニス、赤井さん、田中さん・・
(金弘さんと秦さんと赤井さんの名前は「ドーン」に出てます)

金弘さんは独立してカタログ関連の仕事してます。
元は文化放送でお皿を回してました(DJじゃないです)
今、私の「全仕事リスト」を膨大なレーベルコピーを
ひっくり返して洗い出してくれています。

城野さんは、、、、ん~~同期です。

秦さんも同期です。EPICソニー設立メンバーですから
私ともシゲトちゃんとも一緒でした。
ドーンの項に詳しく書いています。
ポルナレフのモノマネと洋楽カラオケが得意です。

ジャニス・イアンは、シンガー・ソングライターです。

そして赤井さん、この人が赤井恭平さんですよ!
「こんにちわ、ベストも名前も赤い、赤井恭平です!」
「SONYなのにAKAIで~す!」の、これが赤井さんです。
赤井さん、今は大変でしょうけど頑張って下さいね。

田中さん、ビリージョエルの項でチープ・トリックと一緒の
写真に写っていたし、写真館2のポルナレフで、
下の方に大西さんとも写っています。
書きましたが、田中角栄元首相の長男です。
どうすかね、今回の参院選の行方は。
ん~~まあ何と言いましょうか、何とも言えない写真ですな。
ヘアスタイルとかメガネの形とか、
それなのに赤井さんだけ今と全く同じじゃん!!!!

うーーーー
このままじゃ写真館終えられなくなっちまった・・。

2007/07/02 15:27  全て表示   1   コメント 3
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野中規雄の写真館 19

★エアロスミス(ファンクラブのこと)★

昔は「ファンクラブ」とは言ってもオフィシャルなものではなくて
レコード会社公認などと言いつつ、
実は高校のクラブ活動みたいなものでした。

学校の帰りにレコード会社に来て会報を作ったり
新譜を聞いたり、宣伝の販促物をもらったり
その替わりリクエストハガキを書いたり・・程度の。
たまにゴハンごちそうになったりもしてたかと思うけど。

ですからいつも夕方になると制服姿の女子高生が
何人かオフィスに集まってきて騒いでるので
大西部長に「少し静かにしなさい、ここは会社です」
なんて怒られてました(笑)

ポルナレフから始まり、モット・ザ・フープル、
エアロスミス、チープトリックなど自分の担当のファンクラブは
私がお相手をしてましたが、それぞれのファンクラブ同士が
仲良かったこともあるのでしょう、私も自然と担当以外の
アーティストのファンクラブとも顔見知りになりました。
その中には何故か他社アーティストのファンクラブもいたりして!

★この写真は何年だろう?
そんなファンクラブのメンバーが大人になってからのもの。
エアロ・ファンクラブ副会長のロジャー一回目の結婚式
(アハ!バラしてしまったわ・・)
アヤもモリジュも山田道成氏(評論家)もかづみ(後述)も
中途半端に若いわ。片桐さん顔でかいし。

今でも(つまり30年以上経過した今でも)何人かの
そういう元ファンクラブの女の子(現在お姐さんたち)からは
メール連絡もあり、みんなで何かと会って酒飲んだりもします。
当時は会社員と女子高生ファンの関係でも、30年もたてば
もうみんな同じ世代で同じ歳みたいなもんですから。

例えばエアロ以外ではテッド・ニュージェント、ジェフ・ベック、
デビッド・ボウイ、ウィンターファミリー、ピンク・フロイド、
キッス、、、だったかな?
毎年年末は恒例だし、それ以外にも何回か集まります。
今年はユージさんの還暦祝いをやりました。

大体の出席メンバーは上記以外では
岩崎かづみ氏(当時ディスコ担当宣伝マン;現某有名プロダクション社長)伊藤セーソク氏、大貫憲章氏、森下彰夫氏(フジパ)
それと武内邦愛氏あたりだろか。
あ、最近はモット・ファンクラブの内田久美子氏も初参加した。
これね、左から青柳(KISS)、伊藤氏、内田氏、大貫氏

次回は今度の7月7日にユージさんちに集います。
昔の仲間が旧交を温めるというのも悪くないです。
唯一、女性陣に結婚してる人の数が少ないのが気がかり、かな。

最後にもう1枚、本来ならこの同窓会に絶対に出ているはずの
初代エアロスミス・ファンクラブ会長「アスマ」との写真。
若くして亡くなった彼女の、これは多分ニューヨークでのショット。
エアロスミスの公演を見に来てて一緒に撮ったんだと思う。

2007/06/29 12:58  全て表示   1   コメント 4
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野中規雄の写真館 18

★エドガーウィンター(のTシャツ)★

会社同期、このブログにもたびたびコメント書いてくれてる
斉藤シゲトちゃんとの記念写真です。
入社2年目くらいの越後湯沢。
シゲトちゃん髪の毛多いし黒いし・・!私、タレ目の猿だし。
彼はフランソワーズ・アルディ、アラン・シャンフォー、デイブ、
カラベリ、初代フリオ・イグレシアス他の担当ディレクター。

担当はフランス中心のヨーロッパ系が多かったようです。
学生時代の第二外国語はドイツ語だったのに
カラベリを世話してる間にフランス語が話せるようになってました。

学生時代は慶応の名門ライト・ミュージック・オーケストラの
リード・トランペッター兼バンドマスターとして活躍。
誰もが100%プロの道を進むと信じてた程、
日本を代表するトランペッターでした。

会社に就職してからもヤマハの教師してました(内緒で)。
自分が担当したメイナード・ファーガソンという
ジャズの驚異のハイトーンなトランペッターの
代表曲「マッカーサー・パーク」を
当時完全コピーできるのは日本では彼だけでした。

それと、フルバンドの人は「普通だよ」と言いますが
レコードをかけながらスラスラとパート譜を起していく
いわゆる写譜かな、あれを見たときはマジックかと思いました。

今はムード歌謡が好きで釣りが好きで
少しエッチなジイサンですが。

でも今でも、と言うか、ここ数年プレイヤーとして復活。
OBの人たちとフルバンドを組んでライブをやっています。
ジイサンになったシゲトちゃんでもライブの時は
今でも異常にカッコいいんです。(ライブの時は)

その証拠をお見せします。

ね! ......(Photo by Nori)
いいねーー団塊の世代、まだバリバリで。

今は大西サンと一緒にクラシック関係の仕事してます。
今度9月に軽井沢の大賀記念ホールで自分のバンドの
ワンマンライブやるそうですよ。

これ見て、中尾さんとか滝さんとかカルメンとか
登場して来たらいいのにな。

2007/06/25 13:02  全て表示   1   コメント 1
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野中規雄の写真館 17

★カリフォルニア・ジャム 2★

1978年3月18日オンタリオ・モーター・スピードウェイ
(もうないらしい)で行われた30万人参加のロック・イベント
ここに行きたくて行きたくて・・・
でも、見るだけという出張が認められなかったので
写真の3人が自費で行きました。左から
森下彰夫氏(当時ハート担当D;現フジパシフィック音楽出版)
片桐博文氏(当時テッド・ニュージェント担当D;故人)

この時のライブの様子は2枚組のアルバム
「カリフォルニア・ジャム2」に収録されています。
サンタナ、デイブ・メイソン、ハート、テッド・ニュージェント
マホガニー・ラッシュ、エアロスミス、ルビコンなどが出てました。
会場内でのショットは1枚だけエアロスミスの項に載せてます。

我々は貧しい若者だったもので、切りつめたツアーで、
しかも何と初めはサンフランシスコに着いたんです。
凄く安いSF行きのチケットがあったから、
3人で予定をつくってる時に地図見ながら
「グレイハウンドに乗ればシスコからLAなんてすぐだよ、きっと。
だってホラ、3cmくらいしか離れてないじゃん」って。
ところがその地図で3cmが実は遠かったのです!当たり前だけど。

ライブ当日の朝、日本からSF空港に着いてバス停まで行ったら
LAまで8時間以上かかることを知り、それじゃ間に合わない。
空港に戻って又飛行機で行くなどという余計なお金つかって、
しかも空港から車使って1時間以上かかり、
会場着いてからもなかなか入れなくて・・本当に往生しましたぜ。
でも生まれて初めての大ロックフェスティバルはいい体験でした。
何たって30万人ですからねーー。

その広い会場で、2人のカナダの女子高校生に出会いました。
私の胸の「チープ・トリック」の缶バッジを見つけて
向こうから私に声をかけてきたのでした。
「そのバッジどこで買ったの?あたし、ロビンの大ファン!」と。
これっていわゆる逆ナンですか?違うな。。
その頃まだアメリカではチープトリック人気はありませんでしたから
嬉しくてバッジあげました。その子、可愛いかったし。
来月日本でヘッドライナー・ツアーやるんだよ、と言ったら
「日本は凄い、でもアメリカでも絶対チープ・トリックはビッグになる!」って。私は身分を名乗って名刺を渡しました。

その4年後、会社に電話が来ました。
2人で日本に遊びに来たんでご飯食べさせてくれと。。
YMCAだったかユースホステルだったかに泊まってて
とにかく無銭旅行に近い感じでした。
ライブハウスで日本のバンドばかり見てました。

バービー・ショアって言う子でした。
1ヶ月くらいいたでしょうか。
青山一丁目のエピックのオフィスにも入りびたりで。
シゲトちゃん、あの時は何回もつき合ってもらって有難う。
写真は渋谷の岡田雄美子んちだな。

話はカリフォルニアジャムに戻りますが
我々のホテルはチャイニーズ・シアターのそばの
大衆的なホリデー・インでした。
シャワールームのお湯が出なかった・・大衆的ですから。
エアロスミスの宿泊は、イーグルスのLP「ホテルカリフォルニア」の
ジャケットで有名な「ビバリー・ヒルズ・ホテル」でしたので
3人でたかりに行きました。
コテッジでルームサービスを食べさせてもらって
夜中までバドワイザー飲みました。
この通称「カルジャム2」には通称チャッピーの山本さゆりさんも
来てたはずです。音楽専科の福島さんもいたのかな?

2泊くらいで日本に帰って会社で報告したら、野崎部長に
「何や・・担当アーティストを見に行くなら出張で良かったんや」と
言われました。行く前はダメだって言ってたのに・・。

このアルバム、CD化はされていないんですね、
権利関係の問題でしょうか?

2007/06/19 16:54  全て表示   1   コメント 3
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